FXとスワップ金利

[編集] フエ事件 南ベトナム解放民族戦線の「容疑者」を連行するアメリカ軍兵士テト攻勢時に一時的に南ベトナム解放民族戦線の支配下に置かれた南ベトナム安南の古都フエでは、1月30日から翌月中旬にかけて、南ベトナム解放民族戦線兵士による大規模な市民への虐殺事件「フエ事件」が発生した。この事件はテト攻勢の実施に合わせて半ば計画的に行われたものであり、事前に虐殺相手の優先リストまで用意されていたと言われている。犠牲者は南ベトナム政府の役人や警察官だけでなく、学生やキリスト教の神父、外国人医師などの一般市民にまで及び、その数は2000人以上であると言われている。 テト攻勢の失敗が報じられる中、フエでは述べ25日間にわたってアメリカ軍と解放戦線の攻防戦が続けられていた(なお当時の新聞表記は「ユエ」である)。なおこの事件は、南ベトナム解放民族戦線の組織的な犯行ではないとの説もある(詳細はノート「3.7ベトコンによるテロの増加 3.13フエ事件 について」の項を参照のこと)。 [編集] ソンミ村虐殺事件 ソンミの虐殺も参照 一方で、アメリカ軍は解放戦線の非公然戦闘員(ゲリラ)を無力化するため、サイゴン周辺などの南ベトナム国内を主として度々村落の焼き討ちと、南ベトナム解放民族戦線兵士「容疑者」への虐殺を繰り返した。 [編集] ジョンソン退陣 FX取引、FX初心者、くりっく365、FX口座開設、FX資料請求 ディーン・ラスクとロバート・マクナマラとともに会議に臨むジョンソン大統領結果的に戦闘の拡大を招いてしまったアメリカのジョンソン大統領は、アメリカ国内外のマスコミから連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになった。この頃ジョンソンはニューハンプシャー州の予備選でユージーン・マッカーシーに対して辛勝したが、ジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明し、同時に世論調査では最低の支持率を記録した。 FX これらの影響を受けて、1968年3月31日にジョンソン大統領は、テレビ放送によって北爆の部分的中止と、この年に行われる民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由としてベトナム戦争に対する反戦運動などによるアメリカ国内の世論分裂の拡大を挙げた。 反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていたが、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は4月4日に暗殺される。さらに、ジョン・F・ケネディ前大統領の弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディ元司法長官は公民権運動団体などを中心とした支持を受けて大統領選に出馬、民主党は分裂するが、カリフォルニア州で遊説中の6月5日に暗殺された。8月には民主党候補を決定するための党大会が行われていたシカゴ市内で学生を中心に反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、市警官隊が徹底的な弾圧を行い多数が逮捕された。この様に国内情勢が混沌とする中、政権末期のジョンソンは10月に北爆を全面停止させる。 FX [編集] ニクソン登場 選挙戦を戦うリチャード・ニクソンジョンソンに代わって1969年1月20日に登場した共和党のリチャード・ニクソン大統領は、地上戦が泥沼化(ゲリラ戦化)しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようと、このとき54万人に達していた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり、8月までに第一陣25,000名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。なお、この年7月にはアポロ11号が月面に降り立ち、世界の目は泥沼のベトナムから宇宙へと移った。 FX 10月には再び反戦デモとなったが、それはローソクに火を灯すといった、静かなものに変わりつつあった。政権は戦争に入ってから長く無風状態であったソ連と直接交渉に入り、11月からは米ソ戦略兵器削減交渉の予備会談が行われ、1970年4月からは本会談に入った。冷戦は緊張を緩和し、いわゆるデタントの時代に入る。 FX [編集] 「サイレント・マジョリティ」 一方でニクソンは、ブームと化した反戦運動に反感をもつ、「沈黙した多数派層(サイレント・マジョリティ)」に対して行動を呼びかけた。反戦運動は比較的裕福な大学生や都市部のホワイトカラーや、アフリカ系アメリカ人などのマイノリティを中心とした民主党の支持者を中心としたリベラル層やインテリによるものであったが、ニクソンの支持母体はアメリカにおけるマジョリティである、保守的な思想を持つブルーカラーを中心とした共和党支持者の白人保守派層が中心であった。 アメリカのヒッピーベトナムに派遣される下級兵士の多くは、彼らそのものや彼らの子供であり、徴兵猶予などで派兵を免れる現役大学生や徴兵されることのないインテリ層、既存の概念を否定する反体制的なヒッピーに反感を持っていた。彼らはニクソンの呼びかけに応えて声を上げ、各地で反戦団体とぶつかり合った。こうした白人保守派層の巻き返しもあり、もはや現実的なインテリ層や現役大学生の手を離れ、単にブームに乗っただけのヒッピーなどの反体制的で教育程度の低い低所得者層を中心とするものと化していた反戦運動は次第に弱まっていった。 また、まったくの副作用であるが、ベトナムで共に戦った黒人と白人の若者がそれまで完全に分け隔てられていた人種間の融和の促進剤となっていった(なおベトナム戦争は、アメリカ史上初の黒人と白人が同じ戦場で同等の立場で戦う戦争であった)。この点に於いて生前のマーティン・ルーサー・キングは「皮肉な結果である」と述べていた。 [編集] ホー・チ・ミン死去 ホー・チ・ミンフランスの植民地時代から、ベトナムの独立と南北ベトナム統一の指導者として活発に活動していた北ベトナムの最高指導者であるホー・チ・ミンは、1951年のベトナム労働党主席への就任後は、第一次インドシナ戦争の指導や日常的な党務、政務は総書記(第一書記)及び政府首脳陣、軍部指導者などに任せ、国内外の重要な政治問題に関わる政策指針の策定や、党と国家の顔としての対外的な呼びかけに精力を集中し、事実上北ベトナムの精神的指導者となっていた。 戦争指導や政務の第一線の地位からは退いたものの、ベトナム戦争の勃発後も、ソ連や中華人民共和国などの共産圏を中心とした友好国からの軍事的支援や、西側諸国の左派勢力や左派メディアを通じて反戦・反米運動への支援を得るために、北ベトナムを訪れたイタリア共産党のエンリコ・ベルリンゲル党首や、中華人民共和国の周恩来首相と会談するなど、内外において積極的に活動して、対外的にも北ベトナムを代表する地位を占めていたが、1969年の9月に突然の心臓発作に襲われ、ハノイの病院にて79歳の生涯を閉じた。 上記のように、ベトナム開戦時には実質的な戦争指導や政務は行っていなかったことから、死去したことによる戦況に対する直接的な影響は殆どなかったものの、南北ベトナム統一を説いていた精神的指導者の死は、北ベトナム国民をより強く団結させる結果になった。 [編集] カンボジア侵攻 前線に展開するアメリカ軍の戦車 カンボジア戦線の説明を行うニクソン大統領隣国のカンボジアでは、1970年3月に、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線と近い関係にあり「容共的元首」であるとしてアメリカが嫌っていたノロドム・シアヌーク国王の外遊中に、アメリカの援助を受けたロン・ノル国防大臣と、シハヌークの従兄弟のシソワット・シリク・マタク殿下(副首相)率いる反乱軍がクーデターを決行し成功させた。その後ただちにシアヌーク国王一派を追放し、シアヌークの国家元首からの解任と王制廃止、共和制施行を議決し、ロン・ノルを首班とする親米政権の樹立と「クメール共和国」への改名を宣言した。 翌4月26日には、ロン・ノルの黙認の元、南ベトナム軍とアメリカ軍が、北ベトナムへの物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シアヌーク・ルート」の遮断を目的として、カンボジア領内に侵攻した(この侵攻は、アメリカ軍の兵力削減と同時に、中華人民共和国、ひいてはソビエト連邦などの共産圏からの支援ルートを遮断することで泥沼状態の戦況から脱し、アメリカ側に有利な条件下で北ベトナム側を講和に導くための目論見でもあった)。南ベトナムとアメリカの連合軍は、圧倒的な兵力を背景に北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ、同年6月中には早々と撤退。しかし同年末には両ルートと北ベトナムの拠点は早速と復旧し、結果的に目的は成功しなかった。 また、アメリカ・南ベトナム両軍のカンボジア侵攻前後、アメリカの支援を受けたロン・ノル率いるカンボジア政府軍とポル・ポト率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦が始まった。 なお、追放されたシハヌークは北京に留まり、そこで亡命政権の「カンボジア王国民族連合政府」を結成し、ロン・ノル政権打倒を訴えた。シハヌークはかつて弾圧したポル・ポト派を嫌っていたが、ポル・ポト派を支持していた中華人民共和国の毛沢東や周恩来、かねてより懇意だった北朝鮮の金日成らの説得によりクメール・ルージュらと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。